新説:本能寺の変
皆さまこんにちは。大徳美術、店主髙橋です。久しぶりのブログになってしまいました。オリンピックも終わりこれからパラリンピックが始まろうとしておりますが、まだまだコロナの終息には時間がかかりそうです。
ところで私は幼いころより歴史が大好きで、大好きで大好きで挙句の果てにそれが高じて、この仕事に現在携わせて頂いております。特に戦国時代はとても興味があり、当店が扱っている物にもその当時の品物が沢山ございます。今回はその戦国時代のお話を少ししたいと思います。大分県にはあの有名な軍師、黒田官兵衛がやって来まして中津城を創り、九州の関ケ原と呼ばれる石垣原の合戦を戦ったりと、九州の戦国時代を彼が演出したと言っても全く不思議ではありません。私は兼ねがね思っていた事がありまして、織田信長公の死、「本能寺の変」に関しましては、ただ明智光秀公、一人の考えであったのかどうか、それをずっと疑問に思っておりました。あの黒田官兵衛の力量をもってすれば「本能寺の変」は成し遂げられたのではないか。時々このような事を一人で考える事があります。あくまでも個人の考えですが、明智光秀公は女性、子どもは切らない。側室は持たない。この真面目な家族想いであり、家臣想いの明智光秀公が色々な出来事があったにせよ、心変わりをして主君を討つ事は、よほどの決断が無いと出来る事ではありません。その背中を押したのが、私は黒田官兵衛、その人ではないかと考えるに至っております。中国地方からの大返し。これも前もっての構想があって出来る事であり、京都での一瞬の空白、織田信長公、息子の信忠公が小人数で京都にいるその間隙を縫って同時に親子を倒すという、これが出来たのは黒田官兵衛の知恵と経験では無いか。そう考える時がございます。そして秀吉公は戦っていた毛利軍と講和を結び大返しをして、光秀軍を殲滅する訳ですが、それもこれも黒田官兵衛の軍師としての作戦があって出来たのではないかと思います。秀吉公は、その官兵衛の怖さを知ってるが故に中央から官兵衛を遠ざけ九州の片田舎に追いやったのではないかと思うのです。これは私の考えであってそれが正しかったかどうかは、本当のところご本人でなければ分からないところですが「本能寺の変」はある意味、信長公の防衛力の一瞬の隙をついた「戦国の芸術」ではなかったのかと。賛否両論あるでしょうが、毎日こんな事を考えながら令和の時代を逆行し、楽しんでおります。家内からはいつも、「あなたは昔の人ね」と言われております笑 そんな事を考えながらも、皆様の健康と早くコロナが終息するよう祈っております。 髙橋